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  •  鳩尾のあたりがぶるりと震えた。
     真昼の陽光が照らす路地から一歩入ったその邸は、まったくの夜だった。
     僕は小さく首を振って、それから握り締めていたメモを確かめる。
     そこに書いてある名前を恐る恐る呼び、訪いを告げた。奥から軽やかな女性の声がしたのでようやく息をつく。
    「はいはーい。早かったね、何でも屋さん」
    「ああ、すみません。出直しますか?」
    「なんでよ。いいって!」
     こっち、と気さくに首を傾けて笑う彼女は、ミズキさんという。今回の依頼主だ。
     僕はこの街で便利屋を営んでいて、仕事は犬の散歩や病院への付添い、チケットを買うために並んだり、庭の草むしりや家の片付けなど何でもする。屋号は別にあるのだが、大抵「何でも屋」で通っていた。大きな儲けはないけれど、身ひとつで出来て「ありがとう」と言ってもらえるこの仕事を、僕は案外気に入っている。
    「おじいちゃん標本室にいるから、案内するね」
    「標本室?」
     不穏な響きに僕の腰が引けたのにミズキさんが気付く。決まり悪かったが仕方ない。僕は虫が苦手なのだ。しかし彼女は笑いながら手を振った。
    「あー、違う、違う。虫とかじゃないよ」
    「あ、そうなんですか?」
    「ほっとしたね? 虫ダメなんだー」
    「あんまり、得意じゃないですね」
     僕が正直に答えると、彼女は目を細めた。
    「虫でもないし、臓器とかでもないから安心して」
    「臓器って」
     アハハ、とまた笑って、彼女は両手で何かをそっと包み込むような格好をした。
    「花だよ。おじいちゃんは花の標本を蒐めてるの」
     手で形作ったのは花だったらしい。彼女の健康的な肌のせいか、花にしては生き生きとしすぎている気がしたのでそれも正直に言った。
    「イソギンチャクかと思いました」
    「何でも屋さん、彼女いないでしょ」
    「ええ、今は」
    「過去にはいたっていうアピール?」
    「いいえ。未来になら」
    「なんかゴメン」
    「お構いなく」
     ミズキさんはカラカラと笑って夜の中をすいすい進んだ。
     今回の仕事は、ここの隣家の女性を通じて持ち込まれた。何度か彼女の依頼で留守中のペットの世話をしたことがある。「まる」という名前の、モコモコした犬だ。僕は詳しくないので犬種はわからないが、おっとりしたまるとは僕も上手くやれた。彼女はこの家に通うミズキさんとも親しく、困っているという話を聞いた時に僕を思い出してくれたそうだ。
     仕事はミズキさんの祖父の身の回りの世話をしてほしいというものだった。といっても、彼は至って健康で、大概の事は自分でできるらしい。孫である彼女は自転車で十五分の距離に住んでいて、いつも一日に一度様子を見に来ているのだが、学校の研修旅行で明日から一週間カナダに行くことになっている。その間、僕が彼女の代わりを務めるというわけだ。
     気難しい人でなければいいなと、僕はまだ見ぬ彼女のおじいさんについてあれこれ想像した。花を蒐めるという趣味は優しそうだ。生花ではなく標本というのは珍しいが。
     ここよ、と身振りで伝えたミズキさんは、焦茶色の扉を素早く二回ノックした。返事が聞こえる前に開けてしまう。ノックの意味、と思ったけれど扉の向こうの光景にそんな些細な事は吹き飛んだ。幾つもの目が一斉に僕を見た気がしたからだ。
    「これは……」
    「すごいでしょ、全部おじいちゃんの花よ」
     花。確かにそう聞いていた。
     だが、標本は花ではなかった。比喩としては確かにあるのだろうが、とにかく植物ではない。
     美しい少女のかたちをした、人形だった。
     色とりどりのドレスを着た少女たちは、みんなきちんと椅子に座っている。艶めく髪も滑らかな肌も生きているかのようだったが、どこを見ているとも知れない瞳がやはり人形らしかった。
     圧倒されていた僕の背を、ミズキさんが軽く押す。ぽかんと開けていた口を慌てて閉じた。「口は閉じておけ。阿呆に見える」という父親のアドバイスは間違っていない事を僕はこれまでの人生で確認済みだ。
    「何でも屋さん、おじいちゃんよ」
     そう言って紹介されたのは、姿勢の良い老紳士だった。高い鼻梁に切り込んだような目元。銀髪は自然に後ろに撫でつけている。窓辺に立つ彼は無表情で、僕を歓迎しているのかどうかはわからない。僕は名乗った後でお辞儀をした。老紳士はゆったりと頷く。
    「佐波です。よろしく」
    「おじいちゃん、こちらの何でも屋さんがね、私がいない間は来てくれるから。何かあったら相談してね」
    「ああ。わかった」
    「あれ? 声、変じゃない?」
    「そうか?」
    「ほら。なんか変だよ……風邪ひいたの?」
    「ああ……まあ、少し喉の調子が良くないだけだよ」
    「熱は? 熱はない?」
     眉をひそめ、ぺたりと祖父の額に手を当てる彼女は本当に心配そうで、僕は口を挟んだ。
    「病院に行きますか?」
    「いいや。それほどではないよ」
     そう彼は言ったが、お年寄りの体調は風邪であっても心配だ。ミズキさんも安心できないといった口調で食い下がる。
    「でもおじいちゃん、夜中に熱が出たりしたら大変だよ」
    「ミズキは心配性だなあ。お前のお母さんにそっくりだ」
    「そうだよ、私、心配性なの。だからおじいちゃんが心配で研修どころじゃないよ」
    「本当に大丈夫だから。こちらの、何でも屋さんが毎日来てくれるんだろう」
     受け答えを見ている限りでは悪い風邪ではなさそうだったが、僕は心配性のお孫さんを安心させようと提案を口にした。
    「ミズキさん、都合の良い時間をご相談してこちらにとの事でしたので、良かったら夜に伺いますよ。熱は夜に上がる事が多いですからね」
    「そうしてくれる?あの、例えば、泊まってもらうこともできる?」
    「それは構いませんが……昼間に幾つか仕事が入っているので、そっちが終われば来られます」
    「じゃあ、毎日じゃなくていいから、夜に来て泊まって行ってくれないかな?」
     僕は頭に入ってるスケジュールを確認してから頷いた。
    「わかりました。佐波さんさえ良ければ」
     僕を見ていたミズキさんはくるりと振り返って祖父の顔を覗き込んだ。断らせない、と言っている彼女の目を見て、彼は苦笑する。
    「わかったよ。すまないね、何でも屋さん。孫には敵わないんだ」
     彼の弱り切った、でも幸せそうな顔に僕は微笑ましくなって首を振った。
    「僕は大丈夫ですよ」
    「ありがとう!あなたにもメープルシロップお土産に買って来るね」
    「お土産はともかく、心置き無く楽しんできてください」
     ミズキさんはにっこりと頷いた。

     模様替えを手伝う仕事を終え、僕は佐波さんの邸へ向かっていた。夜はまだ冷えるので息が白い。手に持った包みから覗く鮮やかな赤が眩しく、そっと抱え直した。仕事先の奥さんがくれた苺だ。苺狩りに行ったのだと言ってお裾分けしてくれた。そういえば僕は苺狩りに行ったことがない。甘い香りを吸い込んで、佐波さんの家のインターホンを押した。これで勝手に入ってくれと鍵を預かっているが、入る前に知らせたい。念のため少し待って、誰も応対に出て来ないので鍵を使った。ドアを開ける。
     邸の中はやはり夜だった。玄関ホールにも廊下にも橙色のライトが点いていたが、外よりも暗い気がする。ただそれは不安になるような暗さではなくて、ただ静けさを抱えた夜の暗さだ。しんとした邸の中を進み、僕は二階への階段を上がった。
     彼はもう寝ているのだろうか。体調など変わりはないか確かめないといけない。
     教えられた寝室へ向かう途中、標本室から明かりが洩れているのが見えた。ドアが半開きになっている。近づくと、中から話し声が聞こえた。佐波さんの声だ。あの部屋に蒐められた人形に話しているのか。
     僕は勝手に聞いてはいけないと感じて、わざと足音を立てた。ぴたりと声が止む。ほっとして、焦茶色のドアを軽くノックした。
    「こんばんは」
    「やあ。出迎えもなくてすまなかったね。気付かなかった」
    「いいえ。体調はいかがですか?」
     問題ないと答える彼は、少女の人形を前に座っている。他の椅子より少し前に出されているのは、白金色の真っ直ぐな髪に白い肌の人形だ。ドレスも白く、窓から射す月明かりにぽうっと光って見えた。美しく、儚げな花。
     入り口に突っ立ったままの僕を、佐波さんが手招きした。
    「月下だ」
    「……ああ。あの仙人掌の」
     彼の言ったのが彼女の名前だと気付くのに数秒かかった。月下。月下美人。砂漠の夜に咲く、白い花だ。近くで見ると、なるほど、彼女は確かに月下美人であった。白い肌やドレスよりも、黒々とした睫毛に縁取られた瞳がそれを思い出させる。彼女の瞳は夜の色をしていた。きっと僕が見たこともない、砂漠の夜の色なのだろう。
    「皆に花の名前を?」
    「花とは限らないが、そうだな、みんな植物の名前だよ」
    「お孫さんがこの部屋を標本室と」
    「ああ、あの子はこれを植物標本だと言うのさ」
     楽しそうに彼は目尻の皺を深くした。それから月下の隣を指差す。
    「そっちは雪柳。その隣は菫」
     雪柳はふわふわとカールした髪に飴色の瞳、菫は黒髪に深い紫の瞳をしている。僕はその隣の、赤い唇にピンクの頬が愛らしい人形を指差した。
    「こちらは?」
    「それは苺だ」
     なるほど、ぴったりだ。そして手に持った包みのことを思い出した。
    「そういえば、苺。これ貰ったんです。明日の朝にでもいかがですか?」
    「ありがとう。ご相伴に与るとしよう」
    「じゃあキッチンに置いてきますね」
     僕は会釈をして部屋を出た。階段に足を掛けた時、標本室から再び声が聞こえてくる。月下に話しかけているのだろう。何を話しているのだろうか。今日あったことか。孫のことか。それとも遠い思い出だろうか。
     僕は昨日ミズキさんから聞いた事を思い出していた。あの人形たちは、元は彼女の祖母の物だった。正しくは彼女の祖母が作った物。人形作家として特別有名というわけではなかったが、その作品は愛好家の間で高い評価を得ていたらしい。ミズキさんが生まれるよりずっと前、彼女の母親を生んですぐに若くして亡くなった。佐波さんが妻の作った人形を蒐め始めたのはここ数年のことだそうだ。
    「きっと、思い出を蒐めているんだよ」
     そうミズキさんは言った。
     記憶は薄れて行く。望むと望まざるとに拘らず。年を取れば尚更だ。大切な人との思い出をいつでも眺められるように、色褪せないように、彼はいつまでも美しいままの人形を蒐めているのかもしれない。

     毎日でなくてもいいと言われていたが、ほんの一週間のことだしと僕は毎晩彼の家へ泊まることにした。彼は体調が悪いとは言わなかったものの、僕はなんとなく気になっていた。ミズキさんの心配そうな眉の曲線が記憶に残っている。
     三日目の今日も鍵を使って邸内に入ると、まずはキッチンへ向かった。近くのスーパーで買ったオレンジをテーブルに置いて、それから二階に上がる。家の主は標本室だ。数時間か数十分か、寝るまえのひと時を毎晩そこで過ごすらしかった。ドアをノックすると話し声が止む。返事を待ってからドアを開けた。今日彼の前に座っているのは灰青色の髪の少女だった。瞳は薄葡萄と藤色の混ざりあったような色。戸口に立って挨拶を済ませると、彼は今夜の話し相手の名を教えてくれる。
    「紫陽花だよ」
     ああ、本当だ。彼女の髪は雨を降らす空の色だったし、瞳は雫を受ける花の色だった。彼は雨の日の思い出を話して聞かせていたのだろうか。今、外は雨が降っている。紫陽花の咲く季節ではないが、静かな雨音はこの部屋にも届いていた。
    「今日は冷えるね」
    「ええ、雨が降っていますからね。温かいお茶でも淹れましょうか?」
     いいね、と彼が微笑んだので僕はキッチンに下りる。彼は緑茶は飲まないようで、棚には缶に入った紅茶の葉と個包装のティーバッグがあった。迷わずティーバッグを取り出してカップに放り込む。自分用にも淹れ、二つのカップをトレーに載せて標本室に戻った。
    「ありがとう」
    「いいえ」
     シンプルなやりとり。彼は気難しくも無愛想でもないが、口数は多くはない。僕もすすんで喋る方ではないので、彼との時間は沈黙の方が長かった。とはいえずっと黙りこくっているわけでもなく、ぽつぽつとお互いにその日の報告をし合う。
     僕の今日の仕事は子供のバレエの発表会のビデオ撮影をしてほしいという依頼だった。親御さんは見に行けなくなったのだろうか、お子さんはきっとがっかりしているだろうと思ったのだが、両親揃って行くという。わざわざ僕に撮影を頼んだのは、自分の目で我が子の舞台を見たいからだと聞いて、それはなんだかいいなと思った。確かにビデオは後で何度も見ることができるけれど、その瞬間を、撮影にばかり気を取られてしまうのは勿体無い。その時に自分の目で見た光景こそが思い出なのだ。
     湯気の立つ紅茶を少しずつ飲みながら、僕は紫陽花の瞳を眺める。どんな思い出も映すことのない瞳はとても綺麗な色で、それが却って寂しく感じた。
    「わたしは飛行機乗りだったんだ」
     隣から聞こえた声で我に返った。カップを膝に置き、紫陽花を見ながらおじいさんは静かに話し始める。もしかしたら僕にではなく、紫陽花に聞かせているのかもしれない。相槌を打つのを控えて、黙って続きを待った。
    「若い頃イギリスにいた。小さな会社でパイロットとして働いていてね。飛行機も小さかった。わたしが操縦していたのはセスナ182、十人も乗らないプロペラ機だよ。それで色んなところを飛んだ」
     彼は客を乗せてあちこちの空を旅したと話してくれた。広大な砂漠の上を、きらきら光る雪原の上を、エメラルドの海の上を、彼のプロペラ機が飛ぶ。そしてある晴れた日、緑の草原の上を低く飛んでいた時のことだ。1マイル先に雨が降っているのが見えた。はっきりと雨の境目を見たのは初めてで、とても不思議な光景だったと彼は目を閉じて語った。瞼の裏でその雨の境目を見ているのだろう。やがて彼は目を開けると、穏やかな声で言う。
    「見せたかったよ」
     紫陽花の瞳を見つめている彼を残し、僕はそっと席を立つ。
     そうか。
     焦茶色の扉を静かに閉める。
     彼は、亡き妻との思い出を話して聞かせていたのではない。妻に見せたかった景色、聞かせたかった話をああして毎夜しているのだ。
     短かすぎる彼女との暮らしではそんな時間も足りなかったのかもしれない。彼の妻はあまり丈夫でなかったらしいとミズキさんは言っていた。今のように医療施設が整っている時代ではなかったから、旅行などはそう行けなかったに違いない。彼女はたくさんの旅をしてきた夫の話を聞くのを楽しみにしていたのだろうか。
     僕は空のカップを両手で包む。まだ温かさが残っていた。

     最後の夜は初めてここへ泊まりに来た夜と同じ、月下が佐波さんの話を聞いていた。そして紫陽花の夜以来、僕も紅茶を一杯飲む間だけ彼の話を聞かせてもらうようになっている。彼の旅の話は楽しかったので、今夜で最後なのだと思うと少し名残惜しかった。
     月下の黒い瞳を見て、砂漠の夜の思い出だろうかと想像しながら佐波さんに紅茶を手渡す。
    「ありがとう」
    「いいえ」
     毎晩繰り返したやりとりは今日も同じ響きで僕を少し安心させる。
     砂糖もミルクも入れない紅茶をゆっくり飲んで、佐波さんは口を開いた。
    「夜間飛行は多くはなかったけど、わたしは好きでね」
     僕は相槌を打たない。彼の話の邪魔になりたくなかったし、彼の見た世界をそのまま味わいたいからでもある。
     佐波さんは客を南の島で降ろし、ひとり夜の海の上を飛んでいた。真っ暗な空と真っ暗な海は溶け合ったように境目を曖昧にして、何もない暗闇を当てもなく飛んでいるような気分にさせられる。時折雲が切れ月明かりが下を照らすと、海面がゆらゆらと輝くのが見え、彼はその上を飛ぶのが好きだったと言った。
    「夜の空を飛んでいると、自分が何者でもない若造だということが身体に染み入るように感じられた。たった一人、空に浮かぶ小さな飛行機に乗って、少しばかりの孤独と果てのない自由を感じていた。暗闇の先に未来を見ていたんだろう。何しろ若造だったからね。静かに光る波がいつか海岸へ届くように、わたしも見えない力でどこかへ運ばれているのだと思った」
     彼の声を聞きながら、僕は見たこともない夜の海上を思い浮かべる。それは想像の景色でしかないが、若い彼がその時感じたことは僕にも覚えがあった。
     今の自分。この街で仕事を得て、色んな出会いがあった。様々な暮らしを見てきた。だけど僕は傍観者で、その暮らしの中にはいない。自分の居場所はまだどこだかわからない。少しばかりの孤独と自由。どこへでも行けるかのような錯覚。夜はどこまでも続いていく。
    「会いたいと強く願ったよ。まだ見ぬ誰か、わたしと同じような夜の空を見ている、たった一人に」
     渇望の言葉を口にしながら、彼の声は安らいでいた。見えぬ力で運ばれた先で、彼は出会えたのだろう。彼のたった一人。彼の妻に。
     月下の花が香った気がして、僕は夜の海からこの部屋に帰って来た。ぬるくなった紅茶を飲み干す。
     僕も出会えるだろうか。まだ見ぬ僕のたった一人。僕もその人のたった一人になれるだろうか。
     答えを探して辺りを見回したが、花々の標本が咲いているだけだった。

     彼が亡くなったのはその夜から半年後の事だった。
     あの一週間だけそばにいた僕にも知らせてくれたミズキさんに、仕事ではなく何か手伝える事はないかと申し出ると、お別れを言ってくれたら嬉しいとようやく微笑んだ。
     彼の家で行われた葬儀で喪主を務めるミズキさんを見て、彼の娘夫婦であるご両親が他界していたことを知った。親戚もあまりいないらしい。近親者で荼毘に付す間、家にいてくれないかと頼まれたので引き受けた。
     誰もいなくなった家で僕は紅茶を淹れる。カップは二つ。
     標本室に入るといつも彼が座っていた椅子に一つを置いた。隣に僕の座っていた椅子を引き寄せ、黙してそこにいる人形たちを眺める。午後の光が射す窓際には、夜の瞳の月下がいた。僕は殊更ゆっくりとカップに口をつける。僕がこの部屋にいられるのは、紅茶を一杯飲む間だけだ。
    「君たちも、寂しい?」
     紅茶の湯気に紛れ込ませるようにして僕は問いかけた。もちろん返事はない。もう一口紅茶を飲む。
    「僕も寂しいよ。彼の旅の話がもう聞けないのは」
     その時、月下の瞳に何かがゆらと動いた気がした。光の加減だろうかと目を眇める。ちかり、ちかり、確かに何かが光っている。僕は身を乗り出した。手に持ったカップの中でちゃぷんと音がする。
     月下の瞳は砂漠の夜ではなかった。
     月明かりに照らされ、さざめく波。黒の中に白く小さな光が瞬いている。そしてその上を、すうと小さな影が過った。
    「あっ……」
     プロペラの廻る音が聞こえた気がした。
     小さな影はやがて端に消える。
     慌ててその行方を追っていた僕は、消えた先に座る紫陽花に視線を向けた。薄葡萄と藤色の瞳は、今は晴れた青空を映している。細かく降り注ぐ雨のカーテンが遠くに見え、小さな影がそのカーテンをくぐり抜けて行く。
     僕は少女のかたちをした彼の花をぐるりと見回した。彼の飛行機がいつかの空を飛んでいる。
     そこには、彼の出会ったたったひとりも乗っているだろうか。彼の見た景色を一緒に見ているのだろうか。
     
     僕は紅茶をひと息に飲み干し、立ち上がった。
     焦茶色の扉を静かに閉める。
     夜毎聞こえてきた話し声はもう聞こえない。
     彼の想いの標本室を背に階段を下りながら、僕は空になった紅茶のカップに両手を添える。
     ほんのりと残る熱が、僕の手を温めた。
  • (了)
    大柳蜜柑《小説》..
  • 場所アンソロ arium」のweb企画に参加させていただきました。サイトではたくさんの作品が読めます。ぜひお出かけください。
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